風の旅人 第33号 第34号

vol.33 2008年8月

定価 ¥1,200(税込)
全150ページ 30×23cm

 

 

時と刻

 

人はそれぞれ、自らの心に「時」を刻んでいく。
その刻みは、他者や物事との関係で変化していく。
関係が深い「時」は深く刻まれ、関係が弱い「時」は浅く刻まれる。

他者や物事と自分の関係が深くなるほど、自分にはどうにもできないことに対する哀しみが満ちる。
他者や物事と自分の関係が浅くなるほど、自分の存在の希薄さに対する哀しみが満ちる。

人間が刻む「時」は、それがどういう状況であろうが、他者や物事との関係があるかぎり哀しみに満ちており、その哀しみが無ければ、人間としての喜びも無い。

 

(風の旅人 編集長 佐伯剛

 

【 表紙・裏表紙 】

望月通陽

【 写真 】

  • The modern industrial state 中国

    photos・text / エドワード・バーティンスキー

  • インドの寡婦たち

    photos・text / 山下隆博

  • 鬼哭の島

    photos・text/ 江成常夫

  • Trace elements 哀の刻印

    photos・text/ 古屋誠一

  • 夢の島

    photos/ 岡田正人 text / 岡田正人・田中泯

  • 神様の森、伊勢

    photos・text / 今森光彦

【 文章 】

  • 【連載】電気の働きに満ちた宇宙? 第3回-月-

    text / デビット・タルボット

  • 生きることの意味と無意味

    text / 酒井健

  • 正面に立ち戻る眼差し

    text / 小栗康平

  • 偽装の哀しみ

    text / 森達也

  • 天壌無窮ということ

    text / 前田英樹

  • 阿弥陀グッド・ジョブ

    text / 田口ランディ

  • 旅人の心得

    text / 皆川充

  • 島旅ひとつ、また

    text / 管啓次郎

  • 新グレートジャーニー 
    「シベリアの村々を訪ねる」

    photos・text / 関野吉晴

 

 哀しいものは美しく、美しいものは哀しい。
 人は誰でも自らの心のなかに時を刻んでいきますが、その刻みは、他者や物事との関係で変化していきます。
 この地球上には様々なことが起こり、生きているあいだに様々な出会いがありますが、それらの一つ一つが自分のなかにどう刻まれるかは、どう関係するかによって変わってくるでしょう。
 長さではなく、ものごとの刻まれ方が、人生の固有性を表すように思います。表現もまた、その形に表現せざるを得ない”必然性”、すなわち対象と自分との関わりの深さが、固有性につながり、その固有性こそが表現の強さでしょう。
 単に見た目の変化だけで差別化をはかるものではなく、必然に裏打ちされた固有性のあるものが人の心に深く刻まれ、生きていく。
 今日の世界の様々な出来事は、人間に哀しみをもたらすことの方が多いですが、それでも、哀しみによって刻まれる心の襞が、人の関係を深く育んだり、美をつくり出すことも、厳粛なる事実です。

 

FIND the ROOT 永遠の現在 刻と哀

 巻頭で紹介したエドワード・バーティンスキーさんが撮影した写真は、中国にかぎらず、現在の世界を牛耳る価値観が浮き彫りにっている。

 彼の写真に写っているものは全て、人間が目的を持って周到に計画し、緻密に作りあげたものの集積であり、何一つ気まぐれな産物はない。どんなに小さな部品でさえ、それを作る目的のためだけの機械を用意周到に設計・製造するという人工のうえに人工が無限に連なった巨大なメカニズムの産物だ。結果として、そこに生じる混沌とした現象は、もはや少数の人間では制御不可能な怪物になっている。その緻密さと執念と凄まじい現象を呼び起こす人間意識の際限の無さが、坩堝のように私たちの現実を覆い尽くし、その内側をじわじわと蝕み、荒廃させてゆく。
 次に紹介するのは、山下隆博さんが撮影したインドの綿花栽培農家の写真。そこに漂う哀しみは、一家の主の自殺が関わっている。その自殺をもたらすものは、アメリカなど先進諸国の狡猾で欺瞞に満ちた仕掛けだ。
 今日の社会において、ビジネスの仕掛けは、美しく立派な言葉と結びついている。特定の価値観やシステムの普及によって一番メリットがあるのは、それを知り尽くし、使いこなし、その分野で先行して既得権を築いている者だ。さらに、そうした仕掛けをつくる者に媚びて、時代のヒーローのように崇めるメディアが多数存在する。恐ろしいのは、そのシステムに依存しなければ生きていけないような、がんじがらめの仕組みを、美しい言葉に目隠しされて不用心に受け容れてしまうことだ。「物」だけでなく、「システム」と、「正当化する論理」と、「その恩恵を受ける特権階級」(多くの文化人も含まれる)が強靱に結びついて網を広げていくので、その呪縛から逃れることは簡単なことではない。
 江成常夫さんは、リゾート化された太平洋の島々の戦地を訪れ、撮影し続けてきた。戦死者の死体とか破壊されたビルディングで戦争の悲惨さを訴えるという表層的な意識的作業を江成さんは行わない。経済の悪化、失業、憎悪、フラストレーション、疑心暗鬼、過剰警戒、自惚れなど、戦争の要因は深すぎる。特定の悪人を仕立て上げて片づけることもまた、人間意識による自己都合的な解釈の一つだが、戦争という事態もまた、自分に都合よく物事を解釈していく意識の複合的な産物に他ならないことを自覚しておく必要がある。
 江成さんが撮っているものは、「ドラマ仕立て」の「戦争の絵」ではなく、「戦争が刻んだもの」であり、それは、人間の想像力と記憶に働きかけ、“哀”を呼び起こす祈りの行為だ。 この写真家にとって、“哀”こそが、真の“アイ”なのだろう。“愛”は、自己を満たすための“所有”や“略奪”を正当化する衝動につながりやすいが、“哀”は、自らの掌中に収まらない“痛み”や、意識的操作で削除できない“疼き”とつながっている。
 今回の「風の旅人」に出るまで日本の雑誌で自分にとって大切な作品の発表をせず、海外で写真集や展覧会を中心に表現世界をつくりあげ高い評価を得てきた古屋誠一さんは、1985年に自死した妻クリスティーネさんの生前の写真を、彼女の死後、オーストリアの田舎で小さな畑を耕しながら、繰り返し編み続けている。
 近代社会というのは、人間の意識がつくりあげたものだが、それは、集団を一つにするための規格や標準の牢獄でもある。牢獄であることを意識すると生きづらいから、その意識を鈍磨させる麻薬が必要になる。その発展形が現代の消費文明だろう。メディアから繰り出されるありとあらゆる広告、娯楽、そして他者の不幸をあけすけに伝えるニュースさえも、自分の意識と向き合う苦痛から逃れる現代の麻薬と言える。クリスティーネさんの真っ直ぐな目は、そのように意識を鈍麻させて他者だけでなく自分さえ欺こうとする卑小な気持ちに鋭く突き刺さる。規格・標準化された社会の多くの側面は、記号の積み重ねで成立している。それは、事物そのものより言葉で定義されて処理される世界だ。実際に見て触れたことがなくても、言葉でわかったつもりになり、言葉の権威や約束事のうえに成立していく。私たちは、ほんとうは、何一つわかっていないけれど、わかっていないと不都合だから、「標準解答」で武装して生きている。例えば、クリスティーネさんの自死も、「精神分裂症」という世間が用意している答で処理したがる。 しかし、自分にとって本当に大事なものは簡単に標準化できず、自分なりの答を求めて、試行錯誤を重ねるしかない。世間の標準を拠り所にしてわかったつもりになるのではなく、自分の答を求めて何度でも一から始める行為じたいが、本当に大事なものに近づく道なのだろう。
 1970年代の後半から東京湾の埋め立て地「夢の島」のゴミの集積地で、一人の写真家と一人の舞踏家が壮絶な祈りの行為を繰り返していた。誰かに見てもらうとか、どこかに発表するという意識を持たずに。その写真家は、2006年3月、癌のために他界した。その後、はじめて彼の作品が明らかになった。
 私たちの近代生活のありとあらゆる時と場所で出会う物たちが、「無用」とされた後、夢の島にやってくる。私たちは、役に立つとか立たないという分別をごく普通に持ち、そうした分別は人類誕生の時から続いてきたと錯覚しているが、実際はそうではないということを一番わかっていないのは私たち自身だ。さらに言うならば、役に立つものを識別できる身分にあると勘違いしている私たちは、その意識分別が支配する現実の中で、常に自分も厳しく計られ、容赦なく区別されてしまうことを自覚できていない。
 この時代の哀しみの根は、損得、美醜、善悪などモノゴトを分断する価値観によって自分自身が刻まれ、分断されていくところにある。その一方、哀しみによって生じる心の襞こそが、美を作り出し、人の関係を深く育むことも厳粛なる事実なのだ。

雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛

 



vol.34 2008年10月

定価 ¥1,200(税込)
全154ページ 30×23cm

 

 

時と揺

 

私たちは、無意識のなかに様々な記憶を蓄えており、
その記憶が未来に影響を与えている。
既存の価値観によって計画されたものは、
既存の認識のコピーであり、それは未来ではなく過去である。

未来は、言語になる前の無意識のなかにある。
その認識は、言語で固定されないために常に揺らいでいる。

私達の無意識は、
様々な体験を通して言葉にならない感覚を記憶のなかに蓄え、新しい認識の揺籃となって、微妙に揺らぎながら、少しずつ、確実に、未来の準備をしている。

 

(風の旅人 編集長 佐伯剛)

 

【 表紙・裏表紙 】

望月通陽

【 写真 】

  • SHADOW OF SHADOWS

    photos・text / 森永純

  • The European Ghost Republic〔トランスドニエストル共和国〕

    photos・text / ジョナス・ベンディクセン

  • TOKYO FLOAT

    photos・text/ 中野正貴

  • 祈りのアジア

    photos・text/ 井津建郎

  • 切支丹の窓

    photos・text/ 松尾順造

  • COUNTRY SONGS

    photos・text / 奥山淳志

【 文章 】

  • 【連載】電気の働きに満ちた宇宙? 第4回-木星-

    text / デビット・タルボット

  • 自給の思想

    text / 前田英樹

  • 永遠のプロセス

    text / 田口ランディ

  • はかなき聖性

    text / 酒井健

  • 日本の龍(下)

    text / 若林純

  • 赦しと裁きの狭間

    text / 森達也

  • 人とものとの関係

    text / 小栗康平

  • ユートピアからパペエテ

    text / 管啓次郎

  • 旅人の心得2

    text / 皆川充

  • 新グレートジャーニー 
    「氷結した間宮海峡を渡る」

    photos・text / 関野吉晴

 

 新しい段階に発展していく時や、新しい事態に備えたりする時、自然は微妙に揺らいでいます。状況に応じて必要なものを選び取っていく自由を確保するためには、揺れ幅が必要になるのでしょう。微妙な揺らぎによって全体がうまく調整され、結果的に強い力となるのは、自然の摂理のようであります。昆虫の触角は常に揺れ動いているし、力強く空をきる鳥の翼は、一枚ずつの羽が微妙に揺らいでいます。子供を固定した価値観に縛り付けてしまうと激しく苛立つのは、もしかしたら生物の本能によって、生きていくうえで大切なものが損なわれる危機を察知するのかもしれません。
 美しいとか汚いとか、正しいとか間違っているなど現代社会の様々な思考分別や知識は、永遠普遍の固定した価値を示すものではなく、一つの時代における便宜上の線引きにすぎないと思われます。
 それはそれで人間社会を維持していくうえで必要な目安ですが、その枠組みの中で自分の心の揺れを完全に抑圧して生きることが自然の理に適っているとは思えません。
 巨大メディアが自己保身のために組み立てる世界のなかでは、相変わらず、”今風”とか”最新”とか”有名”など固定した切り口でステレオタイプが繰り返されていますが、私たち一人一人は、自分の体験を通して言うに言われぬ感覚を記憶のなかに蓄え、魂の陰影を深め、そこを揺籃として新しい認識を育てており、その認識が、少しずつ、確実に、自分の未来につながっているのだと思います。

 

 

FIND the ROOT 永遠の現在 時と揺

 新しい段階に発展していく時や、新しい事態に備えたりする時、自然は微妙に揺らいでいる。状況に応じて必要なものを選び取っていく自由を確保するためには、揺れ幅が必要になるのだろう。微妙な揺らぎによって全体がうまく調整され、結果的に強い力となるのは、自然の摂理のようだ。昆虫の触角は常に揺れ動いているし、力強く空をきる鳥の翼は、一枚ずつの羽が微妙に揺らいでいる。子供を固定した価値観に縛り付けてしまうと激しく苛立つのは、もしかしたら生物の本能によって、生きていくうえで大切なものが損なわれる危機を察知するのかもしれない。

 今月号の巻頭に紹介している森永純さんの写真は、人間の側から”汚く、死んだ世界”と判断される「ドブ河」でも、深くコミットしていくうちに、こちらの都合で決めた分別の境界が揺らぎ出す瞬間がとらえられている。私たちは、物事(他者)を自分に都合良く解釈し、その解釈に添って整理することが多いのだが、その程度の行為を、”見る”と言っている。森永さんは、じっと対象を観察していると、認識が揺らぎ、現実と幻の境界がわからなくなることが時々あると言う。森永さんにとって”見る”というのは、それまで見えていなかった何ものかが見えてくる危うい状態を指すのだろう。
 中野正貴さんは、ボートなどで川を漂いながら、川面に写る光景を撮影した。今月号で紹介している写真は、私たちがふだん地上から見る光景と逆さになっている。私たちは、地上こそが実体であり川に写った像は幻影だという意識が働いているから、川に写った光景を横目に”鑑賞”することがあっても、本気で向き合っていない。美術館などで行う絵画鑑賞も同じスタンスが多い。本気で関わる必要がないという線引きを行うと、自分の価値観に安住できて揺らぐこともないが、驚きもないし、”美”もない。”美”というのは、自分の価値観が強く揺さぶられる体験を伴うが、そうした状況に置かれると、有名無名の分別は当然として、上下左右も、実体か幻影という分別も消えてしまう。
 ジョナス・ベンディクセンさんのトランスドニエステル共和国の写真は、最近のニュースで伝えられたロシアとグルジアの争いと状況が似ている。ソ連解体後、分離独立した国家のなかで、過去への揺り戻しを願う人々に、大国の利害が絡んで複雑な展開が生じている。中に入って”見えてくる”のは、物事(他者)の切実さであり、外にいて新聞やテレビから得る客観的情報には、物事(他者)と距離を置いた記号的説明や数字ばかりが並ぶ。切実なものは、良悪の分別に関係なく美しい。計算どおりにいかない不条理な現実のなかで懸命に足掻き、傷つき、それでも夢見るのは、古今東西変わらぬ人間の普遍的な生き様なのだろう。

 井津建郎さんの明晰なプラチナ写真を見た時、私は、切実なる人間の心の中を覗くような気持ちになった。そこに写し出されているのは地上の現実であるが、人間が切実に求め、心のなかで慈しみ続けている永遠の形象でもある。
 「観光写真」や「世界遺産シリーズ」等の写真からはまったく感じられない人間の崇高な思いが、井津さんの写真から伝わってくる。
 古代から、意識を持つ人間は世界の不条理を知り、それを乗り越えるために必死だった。変動著しい世界に翻弄されながらも、その中に永遠を見出し、その永遠と自分をつなげることで前向きに生きる力を得ようとする人間の切実さから宗教や芸術が生まれた。井津さんがとらえた一つ一つの遺跡や人間の祈りの姿を見れば明らかだが、人間は、自らの生きる必然性を得るために、哀しいまでの努力をする。その努力の方向が、地位、名声、金銭などに向かう者もいるが、それら記号的価値の儚さを知る人間は、古代も現代も、永遠を求めて彷徨い続ける。
 奥山淳志さんは、第31号で紹介した弁造さんや、今月号の市村さんのように、自らの揺れ動く心に正直に生きている人と向き合うことで、自分自身を見つめ続けている。世の中の価値観に当てはめて自分を偽って生きていく器用さを持ち合わせていない弁造さんや市村さんの魂の陰影に、奥山さんは心惹かれ、そこに孤高の美を見出している。奥山さんは、標準化された社会の尺度ではなく、揺らぎがちな心を軸にして物事(他者)と向き合い、その自分ならでは感覚を形象として表現し、不確かな世界を生きる力にしようとしている。
 奥山さんは、岩手に移住して暮らしているが、今月号で「切支丹の窓」を紹介した松尾順造さんも、8年前に都会を離れて長崎に移住し、長崎や五島の島々にある小さな教会堂の素朴なステンドグラスを撮り続けている。それらは、長い迫害を耐えた隠れキリシタンの人々が、極貧のなかレンガを一つ一つ組み上げて建てていった教会堂のなかの「神に捧げる花」だと松尾さんは言う。ステンドグラスに使う色ガラスは高価なものではなく、手作りなので不純物が多く混ざっている。不純物が高熱で燃え、そのあとが気泡となって残っているのが、なんとも愛おしい。永遠の命を夢見ながら、世間では邪魔者のように扱われた人々の揺らぐ思いが、ステンドグラスの中に凝縮され、永遠の光を受けて、美しく輝いている。
 美しいとか汚いとか、正しいとか間違っているなど現代社会の様々な思考分別や知識は、永遠普遍の価値を示すものではなく、一つの時代における便宜上の線引きにすぎない。
 それはそれで人間社会を維持していくうえで必要な目安であるけれども、その枠組みの中で自分の心の揺れを完全に制圧して生きることが自然の理に適っているとは思えない。
 巨大メディアが自己保身のために組み立てる世界のなかでは、相変わらず、”今風”とか”最新”とか”有名”などの切り口でステレオタイプが繰り返されているが、私たち一人一人は、自分の体験を通して言うに言われぬ感覚を記憶のなかに蓄え、魂の陰影を深め、そこを揺籃として新しい認識を育てている。その認識が、少しずつ、確実に、自分の未来につながっている。  

雑誌『風の旅人』編集長 佐伯 剛