風天塾(ワークショップ・セミナー) 

日本の古層、自然風土と、その文化の本質

 <京都>日時:2025年9月27日(土)、9月28日(日) 午後12時半〜午後6時

場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅)

   *石清水八幡周辺から京田辺あたりの古層をフィールドワークします。

<東京>日時*2025年10月25日(土)、10月26日(日) 午後12時半〜午後6時

 場所:かぜたび舎(東京)東京都日野市三沢3丁目19番地8 (京王線 高幡不動駅)

  *両日とも、10名限定。(1日で完結)。京都、東京とも、資料代として、おひとり様2,000円をいただきます。 


自然の姿が古代の人々にとってしばしば象徴でありうるのは、自然の存在が生命的なものとして、人と同じ次元のものであるとする考えかたがあったからであろう。

「吹き棄つる氣噴の狭霧」から新しい生命が生まれてくるように、人もまた「おきその風の霧」となって顕ちあらわれることができたのであった。               白川静   

                           (左写真)

「かんながらの道〜日本人の心の成り立ち〜日本の古層Vol.5」  

 2024年10月26日発売。



 東京と京都で交互に行っているワークショップは、歴史の個別の部分を一回ごとに履修するといった学校教育のような方法をとらず、毎回、歴史の全体像をまるごと体感することを重視しています。

 細かな情報や知識を持つことよりも、歴史全体の捉え方、人間の営みの変遷の流れの底にあるものを感じとることが大事だと思うからです。
 現在、一部の政治家などは、歴史記録の中から自分の政治的主張に都合の良いところだけを抜き出して、「日本の伝統の良さを取り戻そう」などと声高に、感情をこめてアピールしています。
 その胡散臭さの原因は、どこにあるのか?
 それは、自らの優位性や正当性と歴史を結び付けようとする我欲が、歴史を持ち出す動機となっているからです。
 私は、「歴史」に触れる際に「古層」という言葉を使いますが、それは、私たちの意識の深いところに幾層にも重なっているものを再発見していくところに主眼があるからです。
 その重なりは、きめ細かく織り込まれており、単純明快な切り口で、一部だけを抜き取ることなどできません。
 今ある私たちの心には、歴史全体の時間を通じて積み重ねられた様々なものが流れ込んでいますし、日本の伝統もまた、白と黒に二分化できない無数の灰色のグラデーションの積み重ねによって成り立っています。 
 それらの様々なものの総合が、文化であるといってもいいでしょう。
 自分の心が、単純に自分個人の性格だけで決まっているわけではなくて、文化の蓄積によって整えられているということに少しでも気づけば、今ある自分自身の状況を、もう少し醒めた目で見られるかもしれません。
 そうした姿勢で文化と触れるからこそ、文化は心の糧なのであって、知的教養を着飾るための手段が、心の糧ということではないと思います。
 この島国の風土の中で生きて世代を重ねれば、以前からここにいた人と、後からやってきた人の違いはなくなり、日本特有といえる信仰心が養われていきます。

 日本特有の信仰心というのは、一つは古代のアニミズムから連なる神仏習合で、神でも仏でも形あるものは仮の姿であり、大事なことは、その物事の背後にある本質であるという認識です。
 二つ目が、祖先信仰。この祖先とは、自分と同じ血統を指すとは限りません。
 今を生きる自分に流れ込んでいる全ての過去が、自分の祖先。
 自分は今一瞬に分離された時間の中の存在物ではなく、重々無尽縁起、無限に複雑に相互浸透しあう存在のネットワークの中に存在しているという認識。
 すなわち、祖先信仰は、遠い昔から連綿と自分に引き継がれてきているもの全体への敬意が元になっていますから、アニミズムも神仏習合も祖先信仰も、根は同じであり、それは、この島国特有の風土の中で育まれたコスモロジーの反映でしょう。
 現代社会においては、「私は私、世界は世界。」という分断の自己意識が基軸になり、刹那的で自己完結的なハウツー情報を求めがちです。結果として、「関係」や「影響の連鎖」を実感しずらいまま、孤絶感を深めてしまうばかり。
 歴史を知ることの本質は、その時々の出来事の断片を知ったかぶるところにはなく、歴史上のすべての出来事が、何一つ個別に起きているのではなく、さまざまな因縁の働きで、つながっていることを実感することです。その認識こそが、過去と現在、そして現在と未来のつながりを洞察する鍵です。
 そのことを強く意識したうえで、ワークショップを行いたいと思っています。


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