風の旅人 第44号

vol.44 2011年10月

定価 ¥1,200(税込)
全170ページ 30×23cm

 

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まほろば

SUPERPOSITION

 

人間と自然の間には、人間が作り出した物が積み重なっている。
人間は、考えることで、人間と自然の間を離したり埋めたりするが、自然を作ることはできないし、自然に戻ることもできない。

しかし、人間が考えて作り出した物が、人間と自然の間をつなぎ、人間の心や世を鎮め、平和をもたらすこともある。

人間は、自然を作れず、自然を切り離せず、自然に戻れず、考えることと作ることで自然との距離を少しずつ変容させながら、その間で全体のバランスをうまく保つ関係を探して、生きていく。


(風の旅人 編集長 佐伯剛)

 

 

【 表紙・裏表紙 】

表紙・裏表紙写真 / 川田喜久治

【 写真 】

  • 日光―寓話

    photo & text / 川田喜久治

  • 苔の宇宙、日本の手技

    photo & text / 大橋弘

  • 裏日本

    photo & text / 濱谷浩

  • アナトリア

    photo & text / 鬼海弘雄

  • モンゴリア

    photo & text / エルデンダライ・アロハン

  • ASIAN IDENTITY

    photo & text / 中野正貴

  • ヒトの際

    photo & text / 劉敏史

  • 洪水の後

    photo / 小林正典 text / 佐伯剛

【 文章 】

  • ビッグ・バンとしての今

    text / 蛭川立

  • かさなりあうおぼろの音と色

    text / 山下智子

  • それぞれのモラルー不信と盲信

    text / 伊勢崎賢治

  • ゾーン

    text / 田口ランディ

  • 鼻先の土

    text / 望月通陽

  • 建築の彼岸

    text / 原広司

  • ‘あわい’に魅せられる

    text / 小池博史

  • 赤富士を見顕す、天上の蒼き風

    text / 皆川充

  • はじまれ

    text / 姜信子

 

 

FIND the ROOT 此岸の際

まほろば SUPERPOSITION

 

 それまで頑なに大事だと思っていたことがあっけなく消えてしまった時、実は、そこからが本当に大事なものが始まっている場合がある。一つの山の頂上に辿り着いても、そこで終わりではなく、視界の遥か先に山々が重なり、果てしなく続いていくのが見える。私たちは、そうした風景に慣れ親しんでいる。
 人間は夢を見る。その夢が破れても、また新たな夢を見る。完全なる終わりはどこにもなく、終わりは始まりに転じる。私たちは、様々な経験を通して、そのことを感覚的に覚えている。しかしながら私達の脳は、そうした経験の積み重ねを合理的に処理しにくい。たった一つの経験に囚われ、その中での価値基軸が絶対的なもののように思われ、その呪縛から逃れられなくなることがある。
 ところで日本という国は、その歴史全体を眺め渡すと、実に色々な世界観や人生観が重なり合って存在していることがわかる。明治維新以降は欧米の価値観に追随し英語を通じて様々な物事を自らの上に重ねてきたが、千年遡れば重ねの対象は中国であり、その手段は漢字だった。もともとは自らの上に新たに重ねていったものでしかないが、夢中になっているうちに、それが世界の全てのように感じられ、それ以外のことが目に入らなくなると、従来のものとの間に齟齬が生じて全体のバランスが崩れ、結果として禍も生じる。しかし禍がずっと続くわけでもなく、禍転じて福と為すのも人の世の常。人間の脳は、そうした転換ができ、昆虫の擬態のように環境に応じて自らの在り方を変容させてきた。
 古くから天災に悩まされてきた日本人は、人間の手に負えない疫病や自然災害などを怨霊の祟りとみなし、怨霊を丁寧に祀れば逆に自分に恵みを与えてくれる神に転換できるという考えを生み出した。心の持ちようによって人生の結果が左右されることもあるのだから、それもまた人間の柔軟な知恵だろう。
 今から一千前と少し前、藤原氏の勢力が非常に強い宮廷の政治世界は、菅原道真の怨霊に脅かされていた。その頃、道真と同じように学問と芸術に秀でることで天皇に重んじられた下級貴族の一人だった紀貫之。醍醐天皇の勅命で古今和歌集を編纂した一人として知られる彼が、老年になって女性になりすまして書いた『土佐日記』は、その後の女流文学の発達に大きな影響を与え、きめ細やかな感覚を大切にしながら哀しみを美に昇華させ、無常の世を生きる人間を慰め勇気づける表現文化が、日本社会に広く根を張って行く。その紀貫之は、次の辞世の句を残した。

 手に結ぶ  水にやどれる月影の  あるかなきかの  世にこそありけれ  

 私たちが生きている世界は、手にすくった水に映った月のようなもの。その現実は、あるともないとも確定できない。

 面白いことに、千年前の紀貫之のこの表現は、現在の量子力学と非常に似通っている。
 古典力学は、ものの状態は、与えられた条件によって必然的に決まると主張する。それに対して、量子力学では、ものの状態は、常に幾つかの可能性が重なり合って存在し、(人間が)条件づけた瞬間に、一つの状態に固定されて認識されるだけだと考えられている。
 量子力学の確立に大いに貢献したニールス・ボーアは、一つの世界は粒と波のように一見すると別のものが補い合って形作られていると考えた。日本を訪れた彼は、富士山こそ相補性の象徴であると言った。富士山を、色々な角度から色々な時間で見ると、それぞれ印象は異なる。一つの印象だけで富士山を確定できず、個々のイメージが一体となって富士山となる。私たちが、この瞬間に思い描く世界も自分の人生も、一つの時間、一つの角度からたまたま手に掬い取った水に映る月のイメージにすぎないと詠んだ紀貫之と、ボーアの考えは通じている。

 二〇世紀になって発展した量子力学は、原子の中という人間の目に見えない領域での現象を説明するために開発された物理学の理論だ。福島原発事故によって、人々を恐怖と不安に陥れている放射能は、人間の目に見えない原子の中の陽子や中性子や電子の量子力学的な運動である。その放射能を持つのが放射性物質だ。原子炉の運転による核分裂反応で、「ヨウ素131」「セシウム137」「コバルト60」「プルトニウム239」などの放射性物質が生成され、原発事故によって空中に飛び出し、現在、各地に飛散している。放射能は、人間の力で変化させることはできず、安定するまで待ち続けるしかない。ヨウ素131が八日間、セシウム137やストロンチウム90は三〇年、プルトニウム239は二万四千年という途方もない期間で、ようやく放射能が半分になる。さらにその半分になるまでに同じだけの時間が必要なのだ。
 原子力という怪物を手なずけようとした人間は、いったい何に固執してきたのか。仮に今すぐ原子力発電所を停止させても問題は解決されず、これまでに作り出してしまった放射能と、どう付き合っていくかという未来の課題も残されている。数十年前までは、鉄腕アトムのように原子力のパワーが人間を幸福に導くと信じられていた。政府に騙されていたという言い方は、先の戦争の時に、「非国民」という相互監視で、戦争の流れに加担したことに対する責任逃れと何も変わらない。
 昨日に行ったことは、もはや取り消せない。明日のことは明日にならなければわからない。しかし、今やるべきことは、はっきりとしている。東北地方の復興と、全国の原発に隠れている莫大な放射性物質への対応。一元的な正しい答を性急に求めるのではなく、不確定要素の多い多元的な事項を重ね合わせながら柔軟に根気よく付き合っていくこと。

 「まほろば」は、広辞苑では「すぐれた立派な場所」と説明されるが、現代の私達にとっても懐かしい響きのあるこの言葉を、古代の人々は、どうとらえていたのだろうか。
 「ま」は、「間」や「眞」、「ほ」は、「穂」や「秀」を意味する。「ら」は場所につく接尾語で、「ば」は「庭」のこと。つまり、「ま・ほ・ら・ば」は、物と物のとの間や、物の先端の目立つ場所となり、古代人が、神と人間が出会うと考えていた場所になる。
 また、『字訓』及び『字統』(白川静著)によると、「」は、「匕」と「県」とを組み合わせた形、「匕」は人を逆さまにした形で、それは死者の形。「県」は首を逆さまに懸けている形。すなわち、「眞」は顚死者、行き倒れの人の意味となる。思いがけない災難にあって命を落とした人や、恨みを持って死んだ人の霊は強い力を持つ怨霊として恐れられ、その怨霊を慎んで鎮めることが大事。その一連の儀礼に関する字に「眞」という字形が含まれており、「眞」は、単純明快な「正しさ」ということではない。それでなくても恨み辛みの多い浮世で、慎んでそれらを鎮めてこそ実現できる平和で心休まる場所。「まほらば」には、そういうニュアンスも含まれていると思う。

やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるはし

 本来の“やまとごころ”は、先の戦争の前に国粋思想の中で用いられていた意味とは、大きく異なる。「天皇の為に戦って死ぬ」などという発想じたいが、一元的な目的意識と古典力学的な単調さの典型であり、それは日本古来の思考ではなく、欧米の近代的思考の枠組みの中の、日本の自意識にすぎない。
 “やまとごころ”は、量子力学的な不確定さを持ちながらも、表と裏、右と左、生と死、全体と部分、有と無、中心と周辺、敵と味方といった対立的な枠組みを解消させ、それらを重ね合わせることで、すべてのバランスのとれた状態へと到ろうとする心持なのだ。“やまと”に、大和という字が、あてられているのも、そのためだろう。相反するものを一つながりとして捉え、和やかに共存させること。そうすることで、恨みを鎮め、平和で心休まる場所を実現する。まさに、「やまとは、国のまほろば」なのだ。
 「たたなづく 青垣」というのは、折り重なる青垣。すなわち、山の影がどこまでも連なっている光景であり、湿潤な日本では奈良地方に限らず、どこでもよく見られる。私達は、山に限らずどんな物でも、その実態を見ているのではなく影を観察している。影を通して物事の機微を感じ取って実態を把握する感受性が、「やまとごころ」の核心にある。
 「山隠れる」の山は、神のことであり、神は公の場から見えないところに隠れていると古代では考えられていた。人は、神仏に頼らない不確定な状態のなかで、どうにかして自分の力でこの世の際まで行こうとする。しかし、それでも辿り着けないものがあることを知る。科学の分野でも、宇宙の根本に接近すればするほど、新たに見えてくる広大な未知の世界に驚かされることになる。
 しかし、どんな科学的実験や観察も、量子力学的な視点から判断するかぎり、けっきょく物事の分断面を捉えているにすぎず、それは人間の意識という光を様々な角度から照射して生じる影のようなものだ。その一つ面に正しい答を期待して周りが見えなくなると、いのち全体のバランスが崩れていく。
 科学の成果、人間の営み、社会の様々な現象、万物の有為転変など、人間が認識する全ての存在は果てしなく重なる影であって、この瞬間もまた新たな影が重ねられている。そうした量子力学的な視点を得ることで、空虚に陥ってしまうのではなく、影ならではの“うるわしさ”を感受し、それを愛でる心を養うこと。日本人は、おそらく古事記よりも遥かに遡る時代から、そうした“やまとごころ”を大切にして、平和で心休まる世界を作ろうとしてきた。
 全体が個々に細かく分断され、それぞれの部分が激しく衝突を繰り返すばかりで調和を失い、全体としてバランスを崩した世界は、“やまとごころ”に基づいて、自然と落ち着き場所を見出すのかもしれない。

風の旅人 編集長 佐伯剛


ヘッダー写真・川田喜久治 風の旅人50号

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